〒923-1245 石川県能美市辰口町辰口3−1
↑施設の外観
交通手段:JR北陸本線小松駅中央出口→タクシー約20分
値段:16100~68250円
〒923-1226 石川県能美市辰口町緑が丘5−31−40
↑施設の外観
交通手段:JR北陸線小松駅西口出口→バスJR小松から辰口ハイタウン行き約40分緑が丘4丁目下車→徒歩約4分
値段:22800~60000円
〒923-1245 石川県能美市辰口町辰口20
↑施設の外観
交通手段:JR北陸小松駅西口出口→バスJR小松から約40分辰口温泉口下車→徒歩約1分
値段:14700~51975円
セスナで行く北陸【2】福井空港→富山空港 (by jilllucaさん)
<2004年11月9日 福井空港11:15離陸 富山空港12:20着陸>
福井空港での小休止の後、次は富山空港へのフライトである。
私は3年間金沢に住み富山を職場にしていたことがあり、また隣席の友人は富山出身の為いろいろ寄り道して行こうと思う。
準備を済ませ福井レディオ(福井空港の管制情報官)から情報をもらうと、軽い追い風だが滑走路が着陸時と逆のRWY36になっている、おそらく北東に向かう私たちの為にRWYを変えてくれたようだ、感謝!!
福井空港を離陸し、小松VORTAC(小松空港にある航法用電波標識)に向かって飛行する。
さて何ftまで上昇しようか?小松空港の管制圏(空港から5マイルの円)が6000ftあるので出来ればその上を飛びたい(管制圏を通過するには管制官の許可が必要になる)がVFR(有視界飛行方式)の東向き巡航高度は〜3000、3500、5500、7500・・・・ftとなっている、7500ftまで上がるのは大げさに思えたので5500ftまでの上昇にとどめる。
福井空港から5マイルで福井レディオの周波数を離れ、小松アプローチ(小松空港のレーダー管制官)にコンタクト、小松空港上空を経由しての小松管制圏の通過とレーダーモニターを要求する・・・しかしちょうどボーイング767の離陸と重なっているらしく、管制圏の通過は可能だが山側(南側)を通過してほしいとのことだった。
小松空港を左手に見ながら、辰口、野々市と進んでいく、私にとってはとても懐かしいエリアである。
ここからは私の懐かしい場所を経由して飛行する。香林坊、金沢駅、藤江、内灘・・・空から見るのは初めてだけど懐かしい。
内灘からは富山県小矢部に向かう、ここもまた懐かしい。
クロスランド小矢部(公園?)にある小矢部タワーを中心に2周旋回し、東海北陸道沿いに南下して城端へ、ここでも何度か旋回する。
城端から今度は東海北陸道を北上して砺波ICへ、ここが富山空港への位置通報点である。
「Toyama redio,JA○○○○,Position over Tonami IC 2000 reqest landing(富山レディオへ、こちらJA○○○○、現在位置は砺波IC上空2000ftです、着陸を要求します)」と通報すると、折り返しRWYは20、ファイナル(最終進入)に鳥の群れがいるので気をつけろ、ベースレグで通報せよと返事がある。
富山空港はなかなか見つけにくいと言われているが、私は土地勘があるので大丈夫、神通川と北陸自動車道を基準に進んでいく、
小杉あたりの北陸道から見る立山の姿が好きなのだが、今日は霞んでてよく見えない、残念である。
RWY20に北向きに入るため、空港の南側に向かう。ベースレグで位置通報すると「ファイナルに鳶が数羽います、Runway is clear_(滑走路上支障なし)」と返事があった。
ファイナルを見ると確かに鳥がいるが特に問題なさそう、神通川上を滑走路に向けて最終旋回、雪国特有の黄色いランウェイマーキングが新鮮である。
着陸して指定した駐機場に機を停める、この後、県の管理事務所で着陸料(1,050円)を支払わなくてはならないが、なにやら複雑なルートを通る、一般のお客さんの入れないエリアなので面白い。
ついに思い入れのある富山にセスナでくることができました、感無量・・・できればこのまま北上したいところだが、富山の北は新潟まで空港がないのでさすがに無理、レストランで昼食の後、八尾に戻る事にしよう。
セスナで行く北陸 終
60年ぶりの再会【1】金沢一中55期喜寿の会(by 片瀬貴文さん)
2006年9月21日
われわれ金沢一中55期生は、粟津温泉「法師」で、喜寿の会を開いた。
集まったのは、46人である。
三年前辰口温泉「まつざき」で卒業55年会をやったとき、集まったのは30人台だったから、今回は増えたことになる。
加齢とともに減るほうが自然と思われるが、逆に増加したのだから良しとしたい。
しかし一方では、死亡者数85名と報告された。
3人に1人、鬼籍に入ったことになる。
三年前の死亡者数はほぼ4人に1人だったから、確実に生存率は減っている。
われわれが昭和18年に入学したときは、220名だった。
学校の定員は4クラス200名だが、途中進学による減少を考慮して、20名多く採用したのだろう。
事実入学したときの最上級生5年生は、3クラスしかなかった。
1年生と2年生から陸軍幼年学校、3年生から海軍士官学校予科、4年生と5年生から高等学校、陸軍士官学校、海軍兵学校と、毎年中学校を出てゆく人が少なくなかった。
生存者名簿にある数は179名だから、死亡者数を加えれば、264名となる。
入学時220人からの増加分は、途中で転入した人数である。
大東亜戦争の末期から、戦後にかけて、大都会からの疎開者や大陸からの引揚者が多く転入した。
われわれの中学生時代は、かように波乱の時代だった。